イベントレポート「音楽分析から得られるもの、得られないもの」石塚潤一 × 近藤譲 × 沼野雄司


音楽を分析する、という行為が一体なんのか。この問いに答えるのは中々難しいことですが、音楽学のそうそうたるメンバーが対談されるということで、何か手がかりをいただけるのではないかと思い、参加してまいりました。今回はそのレビューです。

なお、当日の議論と意見を私が再構成したもので、大筋は再現できていると思われますが、発言の正確な引用ではありません。また発言者を明示していないのは、当日の進行がプラトン「饗宴」のようにお三方が期待される役割を演じながら、多角的に音楽分析を論じようとされていたように私には写ったため、誰が発言したかということよりも、全体としてどんな観点が提供されていたのか、ということを重点に整理を行いました。また、あくまで文責は私にあります。

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「音楽分析から得られるもの、得られないもの」
石塚潤一 × 近藤譲 × 沼野雄司

【出演者】(五十音順, 敬称略)
石塚潤一(音楽批評家)
近藤 譲(作曲家、お茶の水女子大学名誉教授)*兼司会
沼野雄司(桐朋学園大学教授)

【日 時】 2015年 2月1日(日)14:00 ~ 16:30 (開場 13:30)

【趣旨】(文責:近藤 譲)
音楽分析は、今日の音楽研究にとって不可欠なツールのひとつになっています。一口に「音楽分析」といっても、そこには様々な種類のものがありますが、それらの全てに共通しているのは、ある種の「科学的な姿勢」、つまり、分析というものは、主観に陥らない客観的な(少なくとも、間主観的な)論証に資するためにある、という考え方です。音楽についての、分析の裏付けを持たない言説は、独断的で、主観的な印象を述べたものでしかないと受け取られさえするでしょう。「音楽分析」は、音楽を論じる際にかくも大きな役割を担っているようです。では、音楽を論じるのではなく、曲を作り、演奏し、聴き、理解するといった音楽行為に当たっては、「音楽分析」はいったいどのような意義と役割をもっているのでしょうか。音楽の実践には、音楽分析は有用なのでしょうか。こうした問題を巡って、3人の音楽の論客が議論を戦わせます。

作曲者だからといって自身の曲を解明し、説明できるわけではない。

一般的に、音楽理論が批判の対象になる際に「作曲者はそんなことを考えて作曲していないのではないか」という定型句が伴います。つまり「作曲者が知らない、使っていない音楽理論は、考えても無駄だ」というものです。

当日もこの話題があがっていましたが、3人とも一様に「分析とはそんな簡単なものではない」ということをおっしゃっていました。「そもそも作曲者が自分の曲の構造を理解・説明できると思ったら大間違い」という意見は非常に鋭く、同時にもっともだと私も思いました。

確かに作曲者は、自分の楽曲について説明をすることができます。もちろん、その曲を作った本人なのですから、作っていない人よりも語ることは多くあります。「どうやったか」について説明することはできます。

しかし、だからといって、自分の楽曲の構造を本当に理解しているのかというと、そんなことはないだろう、「どうなっているのか」はわからないというのが3者共通の見解で、作曲者の発言が全て正しいというのは、あまりに陳腐だ、ということでした。これには私も同意です。

でも作者が生きてるなら、直接聞きにいけばいいじゃないですか?バッハに聞きたくても既に死んでいて絶対無理なんだから。生きているなら、聞きに行ったほうがいいじゃないですか?

「100万円払って3分話ができるなら、学者はみんな喜んでいきますよ。なんで生きているのに話を聞きに行かないんですか?」

あくまで議論を盛り上げるための質問であって、本心からの質問ではありませんでしたが、とても面白いなと感じました。そんな簡単なものではないにしても、会いに行けるなら会いにいって聞けば、解決することがたくさんあるよね、と。バッハとかショパンなんか、死んじゃってて、聞けないんですよ、と笑。会場がわらいに包まれました。

確かにそうですよね。ぼくは最近ジェイディラ系のよれたリズムに興味があるんですが、まだ生きている人もいるので、聞きに行けばいいわけですよね。そうすればわかることもある。死んでしまったら、聞けないことがある。もっともです。

分析をしてもっていって初めて、本人が口を割ることもある。

これも大変面白いなと思ったのですが、作曲者は戦略的に発言を選択しているので、全てを話すとは限らない。作曲者以外の人間が分析をし、ロジックを提示することで、やっと話をしてくれることもある、とのこと。音楽学の最先端で研究されているメンバーだから聞けた面白い話でした。ただ聞けばいいわけじゃないんだと。

これも非常にわかります。さきほどのモタったリズムに関しても、作曲者に質問をしてもほぼ間違えなく、感覚でおこなっている、というと思います。しかしそこには明らかに構造があるんですね。それをこちらが指摘して初めて、お互いに見えてくることがある、というのは非常に理解できます。

創造のための新しい視点を提供してくれる存在としての「理論」

ガーシュインは作曲に行き詰まり、ラヴェルやブーランジェ等々クラシックの作曲家に私淑したいと申し出ますが、断られ、最後にシリンガーの指導を受けることになります。そしてスランプを脱出し、名曲ポーギーとベスを作ります。

シリンガーが教えた音楽理論はバークリーメソッドのルーツであるという説もありますが、現在のバークリーメソッドとはかなり異なっており、音列に数学的操作を加え、全てのバリエーションを機械的・網羅的に創出するというものでした。

これは理論というにはあまりに系を成していないものでしたが、しかしそれでもガーシュインのブレイクスルーの一因となっているとすれば、有用だったといえます。

この逸話から「今まで取り組んだことのない方法を提示してくれる理論は、創造の助けになるのではないか」という議論がなされました。つまり「視点が変われば、新しいサウンドを作り出すことができる。視点を変えてくれるような理論は有用だ」ということです。これも非常に説得的です。

例えば私のようなジャズ方面の人間は、最初からコードは4和音が基本だと考えています。これはクラシックの方とは対照的です。私たちがなぜこのように考えているかといえば結局のところ、コードネームと7thコードが普通なのだという「視点」を持っているからに他なりません。結局「視点」に縛られているのです。そのため、逆に言うとシンプルなトライアドの美しさに気付きにくいといえると思います。多くのジャズメンは不用意に7thコードを使用してしまうということです。慣れているからです。

それから3度を積み重ねてコードを作るとか、ルートから上に音を構成する、という「視点」にも縛られています。ですから、例えばC – F – Bb – Eb のように4度でコードを構成するという新しい視点をもったり、「上から」C – G – D – A と下に向かっていく視点をもつと、サウンドが劇的に変わる、ということを皆さんも体験されていることと思います。

結局、音楽には12音しかなく、その中でどんなことでも自由にできるのに、私たちは自分たちの知っている方法でしか身動きが取れないのだと私は思います。だから、新しい視点を提供してくれる理論が、創造に結びつくことは、十分あるだろう、ということです。

時代の風潮と音楽理論

クセナキスの確率を使った作曲や、トータルセリエリズムのように厳密に定義していくスタイルが流行ったのは、コンピューターの発達や、それに伴うカオス理論の台頭などが影響しているのではないか。つまり、時代の潮流に芸術観が引っ張られているのではないか、という指摘です。

これも当然あると思います。大抵の場合、哲学が先行して、そのあとに数学と物理が、そしてコンピューターサイエンスがそれを追い、次に美術が、そしてやっと最後に音楽が追いつきます。はっきりいって音楽の最先端は、他の文化活動よりも20年ほど遅れてやってきます。それは歴史をみても明らかです。

分節化−グーテンベルクの銀河系

ここからは完全に私の意見です。マクルーハンは「グーテンベルクの銀河系」の中で、言語が現在のように「高度に抽象化」したのは、文字が記され「操作可能になったからだ」といっています。つまり、話言葉しかなく、文字がなければここまで抽象化しなかったということです。文字として書かれることで初めて、私たちは順番を入れ替えたり、主語だけを他のものにしたり、動詞を過去形にしたり、様々な操作を行うことができます。そして操作することによって、一つの一つの言葉は抽象化され、概念になっていきます。

「操作可能な状態になる」というのが非常に大事なポイントです。

これを音楽にあてはめて考えると、単に演奏されるだけであった楽曲が、楽譜に記されるようになって初めて私たちは「音を操作」できるようになり、今までなかった旋律や和声を作り出すことができるようになった、といえると思います。楽譜に記されることがなければ操作をすることができず、結果として受けつがれた音楽を演奏するだけの文化になっていた可能性は非常に高いでしょう。

そう考えると、先ほどの「新しい視点」ということにもつながっていきますが、私たちが操作できる対象とする、ということが創造性に大きく関与していることがわかります。そして操作できる対象とするために、理論が必要なのではないでしょうか?

ジャズメンがコードに長けているのは、コードに特化した記号を持っているからです。そしてそれをカルチャー全体で共有し、この記号をもとに操作を加えます。これによって、私たちはともするとクラシックよりも高速にコードを発展させ、そしてその恩恵をジャズカルチャー全体が受けてきました。これは、繰り返しになりますが「記述し、操作できる対象とする」ことの効果だといえます。

「記述し、操作できる対象とする」ことが重要な要素であるとすれば、音楽理論はこれに貢献します。つまり、コードシンボルがコードを、五線紙に描かれた音符以上にその構造を示し、そして操作しやすい対象としたことで、ジャズにおけるコード進行が飛躍的に発展したように、ある対象をより明確に「記述できる方法」が提供されることによって、音楽上の発展が引き起こされる、ということです。

これこそが音楽理論の音楽的な効能ではないでしょうか?

ではまた!

 

 

 

 

 

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